1992年
高校卒業後 カイロアメリカン大学(エジプト)
 
 
 
 
1993年
カイロ大学文学部東洋言語課セム語専課(エジプト)
 
 
 
 
1995年
大学中退後、日本とアラブ間の映像・ニュースコンテンツ版権ビジネスを行なうJ&Aメディアネットワーク設立
 
 
 
 
1997年
ソニーガルフ(アラブ首長国連邦ドバイ)、モロッコ(カサブランカ)支社で社長付きマーケッターとして勤務
 
 
 
 
2000年
株式会社農業技術通信社、現在に至る
 
 
 
 
 
 
留学するまでの英語は独学です。
たまたま地元である山口に、ハーバード大学政治学部を主席で卒業し、英語の教師をしている方がいたので、その方から学んだりもしていました。

実は、当初の留学予定先は、アメリカの外交政策を学びに、アイビーリーグに行こうと思っていました。ジョージタウンやプリンストンの入学手続きをしていたちょうどその頃は、湾岸危機が発生して、僕としては、当時のアメリカに刃向かうイラクって国というのは、アメリカより“骨がある”だろうと考え、留学先を一転しました。留学先選びの動機といえば、それに尽きます。

イラクのバグダッド大学に行く予定でしたがビザが下りず、先ずは周辺国から攻めようと、1992年にエジプトのカイロアメリカ大学へ入学しました。そして翌年、同大学を中退し、改めてカイロ大学へ入学しました。
 
 
 
 
そのカイロ大学を希望するにあたって、最初に突破すべき問題は、“日本からのインターナショナルの入学枠が無い”ということだったんです。まずはその交渉から始まりました。

入学許可を得る為に、高等教育省の留学生会館の目の前に引っ越して、毎日交渉に通いました。ついに、そこの留学課の担当の方に「あなたの顔が夢に出てくるほど嫌で仕方ない。だから入学させてあげる」と言わしめることに成功しました。しばらくして、どうも入学書類が送られて来ないからおかしいなと思っていたら、実は担当の方が、ああ言えばもう来ないだろう、と厄介払いをしただけだったようなんですね。ならば大臣に直談判するしかないと、彼がお祈りしているモスクに行って、「文明の発祥地でありアラブの盟主、エジプトの文部大臣よ! 日出ずる国からわざわざ勉強しにきた好青年を受け入れないとは両国の損失! あなたの了見の狭さは歴史に名を残すだろう」と訴えたり、いろいろ工作しました。今思えば、国家と官僚組織に揉まれた経験ですね。しかもこの話、ちゃんとオチがあって、僕が通い続けた窓口の担当の方が、引き出しを開けて「ああ、ここにあった」って、----彼女の取り出したシュワルマ(肉のサンドウィッチ)を包んでいた紙が、僕の、”合格証書”だったんです。

これが、ゼロをイチにしたという実例で、それは本来の自分の考え方に確信を強めることに繋がりました。つまり“不可能なことは無い”と。
 
 
 
 
取得メジャーは「セム語」(アラビア語とかヘブライ語などの語族)です。
イスラエル研究をしていました。ロシアのアメリカ研究みたいに、敵国研究というのは世界的に水準が高いわけです。国際政治学や外交研究というのは、そもそも敵国研究の発展系ですから。自分にとっては、関心対象国(アラブ)の異国(イスラエル)研究をすることで、アラブやアメリカ、ひいては世界認識の基礎体力を身につけようという戦略です。ただ、敵国研究科というのは、その国にとってスパイ養成学科の側面もあるわけです。実際モハバラート(諜報機関)へ行く人もいました。「そこに何で日本人がいるんだ!?」と 現に、僕はイスラエルから派遣されて来ているんじゃないかと、疑惑が公安から掛かっていましたし。僕の尾行を担当していた公安には、「本当のスパイだったらこんなバレやすい侵入の仕方をしないだろうよ」といっても、信じてくれなくて・・・何度もこわぁ~い尋問をうけたり、家に帰ると僕のアパートがなぜか軍隊に占拠されていたり(笑い)。同じ学科の学生が諜報機関にスカウトされいく一方、もうひとつのキャリアの選択肢として、観光案内の仕事がというのがあります。エジプトにはモーセが十戒をさずかったとされているシナイ山やスキューバダイビングのメッカになっているビーチなんかがあって、そこでイスラエル人相手に観光案内をするんです。卒業後のキャリアパスとしてはその二つ。スパイになるか観光案内か。僕の選択肢としては、どちらでもない。そもそも、就職という概念が欠如していて、ただひたすら「世界認識力を高めたい」だけ。だから就活で動き回っている他の学生からみたら特異な存在だったかもしれません。
 
 
 
 
晴れて総学生数14万人のカイロ大学にたったひとりの日本人として入学した当日、カイロ大学は旧ソ連と戦ったアフガン帰りのアラブ人武闘派とそのシンパの学生が反米デモを組織し、軍隊にバリケードされちゃったんです。キャンパス団に入っているアラブ人以外の目撃者は自分だけで、直感的に、これはCNNに電話するしかないな、と考えました。つまり、この情報は“お金になる”という短絡思考だったんですね。事実、CNNに1回電話すると100ドルくらい報酬がでるんですよ。これで1ヶ月生活できる! でも、学生運動の闘士は、「日本人であるおまえが情報を伝えてくれると、俺たちの活動が世界に報道される。そうじゃなかったら俺たちのメッセージっていうのは国家権力に掻き消されて、終わっていた」と、僕のやり方を認めてくれていました。それは“14万分の1日本人”である自分だからこそできたことのひとつだったと思います。他の人ではその情報は扱えないということ程、強いことは無いんです。つまりは「一次ソースの重要性」なんですね。物事が起きたその場に行って、できるだけ目撃者になる。それって本来の意味での自分の体験になることでもある。でもそれだけじゃ一次ソースというものは、使えるものにはなっていかない。rawデータは、自分の中で判断基準をもって体系化していくものなんです。その結果、あらゆる情勢下で対応できる瞬発的分析力というかそういうモノが身につく。そうでなければ、この手の現地体験談なんて、雑談のネタくらいにしかならないですよ。
 
 
 
 
エジプトから日本へ帰国後は『J&Aメディアネットワーク』という個人事務所を設立しました。J(=Japan)と、A(=Arab)を結びたいっていう企業理念の版権ビジネスを手がける会社です。具体的には、アラブの民間放送局の日本支局を作るなどの事業活動です。
でもたまに、社名の“A”=“Asia”とか“America”とかなったりして、或は”J”=”Jamaica”とかなっちゃうんですけど。

事務所は最初、某ウィークリーマンションの一室で・・・、夜間管理人室だったんですけどね。国際電話を管理人室からバンバンかけて怒られたりとか、クライアントと商談していても、社長兼管理人だから「(門限)18時なんで帰ります。」なんてこともありましたね。その他にも、日本でよく“午後イチ”って言葉があるでしょ、取引先とアポイント取って、僕の“アラブ時間”で16時に行って怒られたりして、悪気は無いんですが僕の感覚と日本のビジネスの常識の違いを実感して、そういう単語一つ一つが新鮮だった記憶があります。

逆に、日本に持込んだのは、サダム・フセイン原作の映画です(誰も買ってくれなかったけど)。他にも持込んだ映画はあって、まず現地で面白い作品があると、エンドロールのクレジットから版権元をピックアップして、イエロー・ページみたいなのから探すんです。そして、「日本から来ました。この映画の版権を買いたい」って契約して日本の企業に売り込みました。

そんな版権ビジネスを手掛ける傍ら、21歳になって自らも映画制作も企画もしました。イラクを目指した初心にもどった時期です。国連のイラク制裁下の悲劇と愛を描きたかった。シナリオもサードゥン女史(イラクの文豪家の家系の方)に書いてもらって、監督もアメリカでドキュメンタリーを作っていたイラク人の方にお願いして、キャスティングもしっかりした。でも資金不足で完成にこぎつけなかった。すべてこれにつぎ込んで、電気代も払えず、事務所も解散。寄付をはじめ応援してくださった方には、本当に申し訳なかった、と今でも毎日ざんげしています。

映画制作を通して痛烈に感じたのが、いかに自分が個人プレーの権化だったかということ。チームでやらないと必ずしも自分のやりたいことが十全に実現できるとは限らないんだなと。子供でもわかってそうな超基本的なことですが・・・。「ひとモノ金」に関して複雑系のことが映画制作には詰まっているので、いい経験となりました。
 
 
 
 
いままで、人生で2回就職活動したことがあるんですけど、第1回目が、Be-ingに掲載されていたソニーガルフの求人で、募集職種の肩書きは「ニュー・フロンティア・スペシャリスト」っていう、課長なのか部長なのかもわからないものでした。正直、それまで“会社”っていう存在自体、意識に入れていなかったことも確かですが、これこそ自分に向けての求人ではないかと思い応募しました。

その選考がほぼ4ヶ月もかかり、まず日本で2次、3次面接をして、ドバイ面接を経て、モロッコ面接をして、いったいいつ正式な結果が出るんだろうと若干の懸念をしていました。このままじゃ、こっちも電気代払えないですし。折角だから面接の時のエアチケットをオープンにしてもらって第2の故郷エジプトのホテルに待機することにして、その間に、日本人ベリー・ダンサーで、世界デビューを目指している女性のプロデュースをしていました。そんなことをしていたら、やっとソニーから採用の連絡が来たんです。

実は、ソニー・ガルフは、今では結構有名になっているドバイですがそこに中東拠点をおいた初期の会社です。入社後の研修はまずそのドバイで受け、その後は、アフリカでの成功例を作るために “モロッコでのシェア、ナンバー・ワンを達成せよ”といったミッションに従事していました。MDやプレステ、DVDの北アフリカ市場への初導入など、仕事は面白すぎた。ソニーのアフリカ制覇の一兵卒として、365日働きまくって、モロッコ・シェアNo1も実現した。ひとつの達成感を得たとき、アフリカ南下政策に参戦するか、また個に戻って日本進出するか! 二者択一で、後者を選びました。

ソニーガルフに3年間勤めた後、日本へ戻ってきて、数ヶ月の間はぶらぶら且つストイックな生活をしていました。毎朝6時に、牛丼太郎で牛丼食べて、中野体育館のジム行き、中野図書館で日本語の再勉強していました。ひたすら黙々と日本語を読んでいたら、“無性に日本語が書きたくなってきて”、そこで、人生第2回目のBe-ingを開いたわけです。その時、偶然求人を掲載していたのが今の会社で、この編集部に2000年に入社しました。

モノを書く仕事として、なぜ今の会社を選んだのかというと、文章を書く視点からすると、農業という世界はとても混沌とした印象があるんです。例えば、工業系は誰が書いてもひとつの筋道たったものに仕上がる気がします。でも農業は書くことも切り口も色々あるんじゃないかなと思った。入社当初は農業をマーケットとして捉える為に日本全国の農家をデータベース化しようと、片っ端から何所で誰が何を作っているかなどのデータを集めました。そして「農家に直接メール・サービス」というのを立ち上げました。農家というのは個人事業主だから、ダイレクトマーケティングが難しいんです。農家のニーズを我々が直接取り込んで、メーカー側も直接農家のニーズを知ることができるという訳です。
 
 
 
 
自分自身の根幹は“長州藩士”であること。吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞たちはみんな人生30歳くらいまでなんですよね。同じ根っこの魂を持っているっていう例えですけどね。

学生時代、ディベートして、「君は日本人だから云々」とか言われたら「俺は長州藩士だから関係ねぇ」とか言い返してました。そうすると“長州藩士”ってなんだ?ってなって今度はこっちの土俵になるでしょ。「日本にもマイノリティ問題があるのか?」「そうじゃない。俺たちは江戸幕府を倒して日本を創ったんだ」といった風に、ホームに引きずり込む。このホームという定義を突き詰めれば、最終的に“自分以外のホームは無い”ことに行き着くと僕は思っています。だから、リスク発生要因を究極まで自分で高めて挑んでいくし、その都度その都度突発的にも等しくジャッジを切っている。就職活動をする姿勢だって原理原則同じです。行動と結果の道筋の上に直感でジャッジした1つの企業があれば、それで良い。 “自分以外のホームは無い”ということは、言い換えると“自分とは、他者には成り得ない絶対的な異物の存在”なのだと自覚することです。海外に居ようが、母国に居ようが、何所に居てもです。他のひとのやり方と同じにする必要は無いです。自分の導き出したジャッジメントは必ず実現できると信じてがんばってください。