1996年
早稲田大学、大学院在学中に独立系インターネットプロバイダーの経営に従事
 
1997年
ビーレフェルト大学(ドイツ)
 
修士課程(社会システム論)
 
1998年
株式会社野村総合研究所
 
 
1999年
ソフトバンク株式会社
 
 
2000年
ソフトバンク・グループ子会社にて最年少で取締役に就任
 
2003年
株式会社アイスリーデザイン
 
代表取締役に就任。現在に至る。
 
 
 
 
大学には学部に5年、修士で3年行っていて、その修士のうちの1年半をドイツで過ごしました。そして学生時代、日本にいる間に、インターネットの一極集中のプロバイダー事業をやっていたんです。

 当時は、ホームページの制作だけで1ページ10万円とか、サーバー構築したら200万円とか、インターネット関連の仕事をやれば何でも儲かった時代だった。僕は、学部に5年行ったのですが、さすがに5年目は親が学費を出してくれなかった。それならば仕方がない。自分で稼ぐしかないなと。じゃあ、何か金になることをしようって。学費を稼ぐには、当時は、インターネット系の仕事をするのが最も手っ取り早かったんですね。それで、そうゆう仕事をやっていたら、ある人から「出資するからプロバイダー事業をやってよ」と言われて、いいですよって。仕組みを作るところから、経営まるごと請け負ったんです。

 事業は上手くいっていたのですが、僕は元々ドクターに進もうと思っていたから。当時は別にビジネスの道に進むつもりはなかったんですね。だから、留学することは最初から決めていたんですね。それに、ちょうどプロバイダー事業に大資本がどんどん入ってきてて、このままこの一極集中のプロバイダーをずっとやっていても、どうなのかなっていうのがあったんで。まぁ、丁度いいやって。それで元々のオーナーに経営ごと戻して、「僕、一旦抜けますわ」って。それでドイツへ留学したんです。

 
 
 
僕の専門は社会哲学という分野なんですが、哲学は元々ドイツが権威なんですね。それに、社会哲学の世界で当時最もイケていた先生、ニコラス・ルーマンが、ドイツのビーレフェルト大学にいたので、彼の授業を受けに留学したって感じですね。日本の社会学のトップランナーはほとんどの人が、ルーマンを専攻しているっていう。まぁ、そういう意味では、ビーレフェルト大学への留学は必然でした。

 僕が留学した時は、ルーマンが丁度退官する直前くらいだったので、何度かは生の講義も受けられたのですが、結局ほとんどはその人のお弟子さんからの講義でした。でも、当時、ハーバーマスっていうアメリカで有名なドイツ人の学者がいて、ハーバーマスとニコラス・ルーマンって、1970年代の有名な論争があるんですよ。僕は、そのハーバーマスの講義もフランクフルトで受けているんですね。実はこの社会哲学の小さな社会において、ハーバーマスとルーマンの講義を両方受けたことがあるというのは、本当は極めて貴重な人材なんですよ。まぁ今となってはまったく関係のない業界にいるんですけど。

 
 
 
ドイツへの留学で痛感したこと。それは、世界のレベルと、日本の学術会のレベルの差はものすごい! ってことでした。とにかく世界のレベルを痛感しました。自分で言うのもあれですが、自分も日本ではかなり優秀な方だったんですよ。それでも全然。レベルが違いすぎた。欧米の教養人の教養のレベルの深さっていうか幅って、日本人の学者が持っている深さや幅の比じゃない。大学の受け入れの先生と遊びに行くと、例えば古い教会にラテン語で書かれた文章とか、全部原文で読めるんですよ。その先生の家に行ったら、ここは図書館かよ!! みたいな。読んでいる文献の量も知識の幅も半端じゃないと感じました。さらにヨーロッパの知識人って、ものすごい勤勉で、極端な話、毎日オペラを見に行ったり、毎日音楽会に行ったり。あの姿を見てしまうと、こりゃ世界で戦うのは厳しいなと。

 留学中に、修士論文をドイツ語と日本語と両方とで書いたんですけど、帰ってきた時には、自分である意味満足したんですよ。自分がやりたい研究っていうのは、これである程度のレベルはできたと。元々はドクターに進もうと思って行った留学でしたが、ドクターに進んでも、世界のレベルとのコンプレックスを持ちながら、世界の文献と向き合わなければならない。そこで思ったんですね。それなら、いいやと。社会に出ようと。それで大学院に残るのを辞めたんです。留学から帰ってきたときには、わかった。もう就職しようと。

 就職活動は、日本に帰ってきてから始めました。帰ってきたのは97年の7月。就職氷河期の真っ最中で、帰ってきたときには、ほとんどの企業が採用を締め切ってたんですね。当時通年採用をやっていたのは、野村総研とか、リクルートとか数社。それら企業に、「まだ募集してますか」って聞いてみた。これが僕の就職活動でした。応募した企業の根底にあったのは、インターネット系の仕事でっていうこと。ドイツ留学前にインターネットのプロバイダー事業をやっていたので、帰国後も、そこを仕事にするのが手っ取り早いなって。ビジネスをやっていたから、どこか興味を持ってくれるだろうって思っていました。就職大氷河期だったのですが、受けた企業は全勝だったんですよ。

 
 
 
帰国後、初めに就職したのは野村総研だったんですけど、当時はインターネットバブルがあったんですね。手堅く人生を送るならそのままでもありだけど、20年後も自分が同じ職場で働いている保障なんてないわけじゃない。それなら、今このバブルに乗っておかないでどうするって。それで、ちょっと人生博打に出ようと思って転職したのが、ネットバブルに入る直前だったソフトバンクでした。今でこそ大企業になっていますけど、当時はまだ怪しい会社だったんですよ。

 ここでは本当に色々な経験をさせてもらいました。ラッキーだったことに、この時ソフトバンクで面白いことができたのは、横から入った僕たち転職組だったんですね。やっていたのは主に事業企画や経営企画系がメインで。特にシリコンバレーや西海岸のベンチャーの宝探し。どの会社がイケているかって、探して、その会社との窓口をやっていた。新卒の子たちは、現場の仕事をさせられていて、海外のJV案件とか、そういう頭脳ワークは、転職組に任されていたんですね。僕が入社して最初に扱った案件。その額を見たら、何と「100億!!」って書いてあるんですよ。もう「えーっ!!」て、変な会社に来ちゃったなって。

 さらに衝撃的だったのは、入社して2~3年。僕が28歳の時です。いきなり役員から5億円の通帳と印鑑を渡されて「とりあえず会社作ってよ」って。本当にこんな感じで、なされるがまま事業会社を作って、任されちゃったんですね。入社してまだ、たかだか2~3年で、グループ最年少役員になってしまったんです。今では想像もできないけど、ネットバブルの時代だったから、本当にこんなことが起こり得たんですね。貴重な経験でした。当時、ソフトバンクは色んなドットコム企業を山のように作っていたから、データセンターと山のように契約していたんですね。それをソフトバンクデータセンターっていう、一つのデータセンターにまとめちゃって、バルクで契約しちゃって、コストダウンを計ろう、というのが事業内容。だからグループ内企業みたいな感じだったんですね。ボリュームが稼げたら外に売っていこうよっていう感じ。

 当時はやったことないことばかりだったので、とにかく大変だった。健康保険含め福利厚生の手配とか、人の採用、組織の作り方、営業の実践。やることなすことすべて始めてで。野村総研時代は経営指標の計算の仕方とかやっていたけど、自分の会社で利益率の高い会社って、作るの大変じゃん、って思った。それでもネットバブル絶頂期だったから、ある種の熱狂的感があったんだろうね。わからなくても、なんか面白いって。サラリーマン向いてないと思っていたし、いつかは会社を起こしたいなぁって思ってたから。実地でMBAをやらせてもらった感じでした。

 ただ、26歳で就職して、28歳で役員になってしまったから、僕は圧倒的に現場経験が少なくなってしまったんですね。だから、マネージメントには本当に苦労しました。修士留学した人はみんな同じだと思いますが、勉強していた時期が長く、社会人経験が短いから、実際の年齢より若く見られるんですね。加えてこの時の部下は年上ばかり。現場経験の少ないキャリア組は、少しヘマをすると、すぐになめられる。年上の部下をはじめとする社員との関係。これは乗り越えなくてはいけない大きな壁だよね。もう、はったりと度胸で何とかするしかなかったんだけど、この時に気をつけていたのが、正しいと思ったことには、正しいって言おうってこと。正しいことを言えば、人はみんな耳をかたむけてくれる。反対意見にもしっかりとリスペクトをして、それから正論を言う。正論は人を動かせる。何でも小手先でやろうとすると、ろくなことにならないんですよ。これは哲学の性ですね。哲学っていろんな思考パターン、論理パターンの組み合わせの歴史なんで、人間が考えられる思考的深さの、ある意味限界パターンなんですね。だから、大抵の場合の論理フレームが見える。留学経験で、非日本人とのコミュニケーション能力が身についたのはもちろんだけど、これまで勉強してきた哲学も実際の仕事で活かせていますね。

 
 
 
2003年、アイスリーデザインという会社を設立しました。日本の企業が世界中でWEBプロモーションをかけられるように、多言語サイトの構築とか世界中の検索エンジンにおける最適化(SEO)とかをメインにやっています。今はインドに拠点があって、フィリピンとロシアでも展開中。北米、中南米、アフリカ、ロシア、中国、ニュージーランドなどに対してSEOをかけられるように、世界中のディレクトリサイトや検索エンジンをデータベース化して、そこにサイト登録しているんです。

 グローバルな仕事がしたかったのと、日本の国力保持に役立つ、世界から日本へお金が流れる仕組みを作る仕事がしたかった。これがこの会社を設立した理由です。特に一番やりたかったのが、日本の製造業の世界進出の手伝い。日本の製造業って、やっぱりものすごい優れているんですよ。この○○はここしか作れません! みたいな。あと、日本の製造業に興味を持っている海外の投資家との直接のマッチングもしたかった。大手は独自でやれるけど、結局日本って、中堅企業が元気にならないと、日本経済は活性化されない。それに、このままでは大企業にどんどん富が偏在してしまう。中堅企業のグローバル化っていうのは、これはもう必須だなと。そのために自分に何ができるかと考えて思いついたのが、多言語サイトの構築であり、グローバルSEOだったんです。このシステムを使って、これからさらに何ができるか。今後も楽しみながらビジネスをやっていきたいですね。

 
 
 
国内のエリートが海外に出て、海外で勉強して、世界中の教養を留学生たちが国に持って帰って、それが国の発展になっていく。中国をはじめ、途上国が今やっているのはこれ。日本は途上国ではなくて先進国だから、全く同じ図式が適用できないのはわかっているけど。日本の場合は、優秀な研究者って、アメリカにそのまま居づいちゃったりする。でも今後は、大学や学術機関にも、海外に流出した頭脳をいかに戻せるかも重要なことだと思う。

 日本は今後、国内の人口も減るし、GDPも明らかに減る。ボーダレス化、グローバル化っていうのは日本の使命だと思うから、そのボーダレス化の先手というか、グローバル化した人材として、今の留学生たちには日本に戻ってきて欲しいな。世界に住むとわかると思うけど、日本はやっぱりいい国だから。それで、日本の良さをもっと海外に伝えて欲しい。それが一番、海外留学生が日本でやって欲しいことです。