1994年
筑波大学第二学群生物学類 青年海外協力隊でタンザニアに赴任 (4年間)
 
 
 
 
1998年
日本帰国後、財団法人日本国際協力センター 調査研究員
 
 
 
 
1999年
京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科 ソコイネ農業大学 地域開発センターに留学してフィールドワーク(2年間)
 
 
 
 
2001年
修士論文提出
 
 
 
 
2004年
博士課程を単位取得 ワタミフードサービス株式会社 関西営業部(副店長)
 
 
 
 
2005年
アフロ・フレンチダイニング「神楽坂Tribes」(料理長)
 
 
 
 
2006年
株式会社農業技術通信社 編集部所属
 
 
 
 
2007年
月刊『農業経営者』読者の会事務局長就任 現在に至る
 
 
 
 
 
 
大学4年生の夏、今でも鮮烈に覚えている運命の出会いがありました。大学では作物の育種(遺伝的な性質をもとに改良し、より良い品種を育成すること)を専攻していました。実験室にこもる日々、その夏は、大学の薄暗い階段の踊り場に、窓くらいの大きな『青年海外協力隊』の募集ポスターが掲示されていたのです。私の記憶ではヨーロッパ中世の宗教画のように、後光がさして暗闇に浮かんでいるのですが、よく考えるとそんなはずはないですね。とにかく私は雷に撃たれたように、その場に釘付けになりました。募集ポスターでは日焼けした青年が、樹の苗を抱えて、白い歯を見せて笑っていました。「あぁ、これだ!」と直感的に閃き、決断しました。それから卒業まで就職活動はいっさいせず、協力隊へ行くことだけ考えました。隊員としての職種は“農業”であること、しかも派遣国は“アフリカ”であることが絶対条件。ポスターの写真に感じたロマンが応募の動機ですから、それは譲れませんでした。

しかし、育種研究のバックグラウンドがあっても、農業にはまったく素人。アフリカどころか、日本の農業の知識すらありません。そこで大学卒業後、長野県の八ヶ岳中央農業実践大学校で8ヵ月間の実習を積み、晴れてアフリカ・タンザニアへ農業隊員として赴いたのです。
派遣先は、植林プロジェクトでした。私の任務は2万ヘクタールの植林地に点在する村々を巡回して、樹の苗を育てるナーサリーの作りかたを普及することでした。普及なんていうと実に偉そうだけれど、現地の農村に住む人々には、本当に植林するニーズがあるかどうか疑問で、いつも悩みながら活動していました。「アフリカの乾燥地を緑化する」というのは、私達にしてみれば正しいようですが、先祖代々その環境に生活している人々にとっては、「樹を植えるのは良いことだけど、なんで自分がそれをやるの?」という雰囲気なわけです。

せっかく植林して根付いた樹を、家畜を放牧する途中にあるから、という理由で伐られることもありました。私達は農耕をするには樹があったほうがいい、と考えて植林したけども、放牧している人々には邪魔にもなるのです。同僚のタンザニア人官僚に相談すると、「村の人々は無知だから、教育する必要がある」の一点張り。これはどうも日本人もタンザニア人官僚も、村の人々がどうやって生活していて、どんなニーズがあるかということに理解がなさすぎる。相手を理解してないから普及もうまくいかないのでは、と考えるようになりました。

そんなある時、村を出て都会に行ったら、道路際に人々がナーサリーを作っているのに出会いました。スーパーのナイロン袋なんかを再利用して、いかにも自分達で苦労してやっている様子。思わずそこにいた人に、なんで苗を作っているのかと聞きました。すると、都会では経済的に豊かな人達の個人宅や、公共事業などで緑化のニーズがある。これはビジネスだというのです。私はナーサリーを作る普及員だと自己紹介したら、そのまま日が暮れるまで真剣に育苗技術の話になって、晩飯まで食べさせてもらった。都会に出てきたら、必ずまた寄ってくれと連絡先までくれた。

なるほど、村の人達がナーサリーを作らないのは、ビジネスにならないからだ。普及というものは、お金を払ってでも受けたいサービスでなければ本物じゃない。つまり援助ではなくビジネスであるべきだ。確かに国際協力のなかには人道援助のように無償ですべきものもある。しかし農業開発に関してはビジネスにできる。そうすれば援助する人・援助される人、という構図を脱却して、対等な立場で話ができる。大切なお金を払うからこそ、お互いに真剣な関係になれるのだ、という結論に行き着いたのです。

 
 
 
「農業普及はビジネスにできる」その考えを、いったん援助機関から離れて体系化してみたい。そう思って、京都大学の大学院へ進みました。京都大学のアフリカ研究は、綿密なフィールドワークに基づく研究の伝統があります。私は、村の在来農業ではどういう経営をしているのか、最近はどんなニーズがあるか、儲けている人はどんな農業経営をしているのか知りたかった。その為に、隊員時代の任地に近いチパンガという村で調査することにしました。隊員の頃とは違い、何の支援もありません。そこでソコイネ農業大学の地域開発センターに留学して、研究指導を受けながらフィールドワークを実施することにしました。

チパンガ村はタンザニアの首都ドドマから未舗装道路で約60km、留学していたソコイネ農業大学までは、ドドマからさらに東へ280kmも離れていました。最初は教会の倉庫に寝泊りし、次第に仲良くなった人の民家に居候させて貰い、村に住み込むことができました。次に、なけなしの所持金10万円で牛と山羊を買い、自分で飼ってみることにしました。土地も借りて伐採し、畑作も始めました。家畜の放牧は予想以上に大変で、毎日10~20kmくらい灼熱の太陽の下を歩いて草を食べさせたり、水場につれていく必要があります。過労と粗食が続いて病気になりました。42度以上の発熱が連日続き、ベッドで唸る毎日です。マラリアだと思って治療薬を飲んでも、熱が下がらない。腸チフスかと思って抗生物質を飲んでも、やはり熱が下がらない。土でできた壁に囲まれて、食事も喉を通らず2週間。「こりゃ死ぬかな?」と思っていた頃に、病院への車が迎えに来てくれました。現地でアシスタントに雇っていた青年が、なんと町まで60Kmバスを乗り継いで呼びにいってくれたのでした。ついでにこの話にはオチがあって、病院でマラリアと腸チフスに同時に感染していると診断され、両方の薬を同時に飲んだら回復しました。

「こりゃ死ぬかな?」という経験は貴重です。良い意味で鈍感になれる。当時そろそろ30歳を超えていた私は、大学院を終えたら研究機関で研究者とか、援助機関で就職とか、堅実なキャリアを積むことを漠然と考えていました。“自分がやるべき仕事はなにか”を考えなくなっていたのです。それが吹っ切れた。実際、その後には失業期間も多少あったのですが、「人生、こういう時期もある」と考えられるようになりました。リスクを怖れて安易な判断をしそうな時、あの土でできた壁が目蓋に浮かびます。あの時、死んでいればそもそも今はないと思えば「よし、やろう!」と思えるのです。
フィールドワークは実際に農耕や牧畜をしたことで、聞き取り調査では得られない成果を得られました。これは調査に限りませんが、自分で行動せずに「教えてくれ、助けてくれ」と言っても誰も相手にしてくれない。破れかぶれでも、とりあえず行動すると自然に人が集まってくる。牛を騙し取られたり、盗まれたり、病気になったりしているうちに、良い牛はどこで売買すればいいのか、牧童はどう使うべきか、といったノウハウが集まり、そもそもの研究の目的だった牛飼いのニーズや、成功者はどんな農業経営をしているのかも理解できました。

帰国後、発展途上国と呼ばれるアフリカの農村にも、優れたビジネスセンスを持ち、理念をもって農業を営む経営者がいるということを、まず論文にしたかった。京都大学に戻り、成果を修士論文にまとめて、博士課程に進みました。ところが、どうやら自分はアマルティア・センのように、学者として貧困問題に貢献できるような能力はないと自覚した。一方で途上国の「農業開発×ビジネス」を実現したいという思いは、ますます醸成されていきました。

 
 
 
では、自分は何ができるのか問えば、頭でっかちな大学院生でしかなかない。金もなければ経営能力もない、ビジネスを構築する力なんて全然ない。ここで、ついに32歳にして人生初の就職活動をしました。大卒の同期に比べると10年のブランクがある。優れた経営をしている企業でがむしゃらに働いて、このブランクを埋めなくてはならない。もちろん農業に関わる企業がいい。いろいろ調べていたら居食屋「和民」で有名なワタミフードサービス株式会社(現・ワタミ株式会社)を知りました。当時、グループ店舗へ農産物を供給する自社農場をスタートさせていて、外食から農業に参入した企業として評判でした。周囲からは「博士課程まで行って、なんで居酒屋の店員なの!?」と唖然とされましたね。店舗では、ホールにいると店長に「お前がいると学者っぽくて、居酒屋っぽくならない」とか言われるし、厨房では10代のアルバイトに「ポテトの盛り方がちがーう!」なんて皿ごと投げられるし、大変でした。

それでも、「ビジネスに必要なことは、すべてワタミから学んだ」と今でも感謝しています。まず飲食店は、ビジネスを肌で覚えるのにすごくいい。一つの店舗の中で、食材を仕入れて調理やサービスという付加価値をつけて販売するから、ビジネスモデルがわかりやすい。お客様は目の前にいる。改善すべきことはすぐ実行できて、効果は毎日の売上に数値化される。ワタミの店舗は利益構造が素晴らしくて、メニューの組み立てやマーケティングも実に科学的でした。さらに経営と理念の教育を徹底していて、店舗経営の逐一がなぜそうなっているか理解できる。無経験の私でも半年で副店長になり、アルバイト10~20人を統括して労務管理する立場になりました。そしてマニュアルが標準化されており、アルバイトもすぐに戦力に育ちます。とにかく毎日毎日がすごく勉強になりました。そういった仕組みを学んでいくうちに、だんだん自分で店を作りたくなりました。しかし、それはチェーン店では難しい。結果、転職することを選びました。

転職先は、個人経営のアフリカ料理レストランの料理長です。この求人広告は絶妙で、“アフリカでの経験と外食業の経験のある人材求む”。これは日本中で私が最適任だと自信をもって応募しました。ワタミで学んだメニューやマニュアル作りにより店舗のシステム化を進め、逆にワタミではできなかった個人経営らしいイベントを企画しました。在日アフリカ大使を集めたサロンを開いたり、国際協力イベントで屋台を出したり、楽しかったですね。同時に収益のでる経営をすることや、仕組みを作っていくことの難しさも体感しました。

 
 
 
現在は、株式会社農業技術通信社という出版社で働いています。農業をビジネスとして経営するための専門誌、月刊『農業経営者』の編集部です。実際は編集よりも『農業経営者』の読者の会事務局長としての業務が中心ですね。具体的には、読者である農業経営者たちに向けて、「セミナー・商談会出展サポート・海外視察ツアー」の三本立てで企画運営をしています。様々な機会を提供して、農業経営者の方々のビジネスを支援させて頂いています。

今年(08年)2月には、中東・ドバイに、読者の農業経営者をご案内するツアーを担当しました。「100兆円オイルマネーを日本の農場に還流させよ!」をコンセプトコピーに、読者の方々へ呼びかけを行い、18人が参加するツアーになりました。ドバイ国際会議見本市センターで開催された『GULFOOD2008』をはじめ、超一流ホテルの厨房など贅沢市場に農産物を売り込もうという企画です。こんなツアーは、おそらく前例がありません。また単に農産物を輸出するのではなく、海外にある理想的な農業環境の土地に、世界最高水準の日本の農業技術を持込めば、適地適作による素晴らしい生産活動ができるという目論見もありました。

現職では純粋に日本の農業経営者向けサービスをしているのですが、結果的に海外の農業開発に繋がり始めています。もっともこれは偶然でもなくて、農業ビジネスの現代的な可能性を考えたら、国内や国外という政治的・地理的な境界が意味をなさないということに過ぎません。他の産業であたりまえになっているグローバル化が、遅まきながら農業界にも進んできたということでしょう。今後も日本と海外の農業経営者を支援するサービスを提供し、仕組みとして創りあげていきたいと考えています。そのことは結果的に、アフリカのような途上国における持続的な農業開発にもつながるでしょう。

 
 
 
私は人一倍ノミコミが悪く、突き詰めて考えすぎるうえ、何事も自分で確かめないと気がすまない性格で、お話したようなキャリアを積むことになりました。私にこれまで教育費を払った両親や、現在の家庭を支えている家族などには、相当な負担をさせたのも事実です。だから、例えば国際協力を目指す学生さんなどに、私のようなキャリアをお勧めする気はありません。それぞれの業界にはキャリアガイドがありますから、最短で目指す仕事に就くキャリアを重ねるほうが賢いでしょう。

私が今のような仕事をしているのは、ただ単に行動の結果です。自分の理想とするキャリアデザインが世の中に用意されてなかったので試行錯誤していたら、いろいろな方々の援助を頂いて、ようやくそれっぽくなってきたというのが現状です。

初志を貫徹しなければならないとも思いませんが、正しいと思ったことは続けたいものです。自分に嘘を付くのは辛いですから。そういう意味で自分の人生における絶対に譲れない「原則」を見つけることは大切かもしれません。考え抜いた先は行動して、色々ぶち当たっていけば良いと思います。やってみて違うと思ったら「原則」に戻ることで、どうすれば良いのか分かるようにしておくことだと思います。