草野球好きのフツーの青年が、自分でも何が何だかわからないうちに、
イタリア・セリエAのプロ野球選手になってしまう。
まるで小説のような展開を見せる痛快な体験をしてしまった八木虎造さん。
まさに事実は小説より奇なりを地でいった八木さんの話は、
同じ異国の地で生活を送る留学生の方々にとって、
大きな励みになるのではないだろうか。
 
 
 
 
プロフィール

1974年、東京都大田区生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退後、カメラマン・渡部さとる氏に師事。24歳でフリーカメラマンとして独立。29歳の時に、イタリア・シチリア島へ渡り、草野球をやるつもりで入ったチームがセリエA-2所属チームだったという偶然から、イタリアで野球選手として活躍。同時にカメラマンとしての仕事でも有名になる。2006年末、もっと世界の野球が見てみたいと、キューバを訪れ、さらに2007年春からは、リトアニアの野球チームにも所属し、ヨーロッパ各国のチャンピオンを集めたカップウィナーズカップにも出場。現在、エジプトで野球をやるべく探索中。
 
 
 
 
 

『イタリアでうっかりプロ野球選手になっちゃいました』

 これが八木さんの本のタイトルだ。多少なりとも、野球の知識がある人であれば、このタイトルを見て「まさか!」と思うに違いない。なぜなら、「うっかり」でやれるほど、イタリアの野球レベルは低くないからだ。実際、アテネ五輪まで4大会連続出場しているヨーロッパの強豪である。ところが、どう考えても、なるほどまさに「うっかり」だなと、納得させられてしまうドラマが、八木さんに降りかかったのも確かに事実なのである。

 八木さんの本職はカメラマン。フリーになって6年目の29歳。仕事は途切れることなくひっきりなしにやってきた。それだけ書くと、羨ましい売れっ子カメラマンということになるが、本人曰く「フリーになって以来、いつか仕事がなくなるんじゃないかという強迫観念で、来た仕事は断れなかったんです」とのこと。睡眠時間を削って仕事をしていたという。そして案の定、体を壊す。そんな体になってまでも、仕事が気がかりでしょうがない自分の異常な精神状態に気づき、このままでは心身共にダメになると、長期休暇を決意。同居していた彼女も同意してくれ、二人でしばらく好きな土地に行ってゆっくりしようということに。しかし、実態は…。

 「彼女が来てくれなかったんです。こっちはいろいろと準備を進めてビザとって、後は二人分のチケットを…と思って聞いたら、『え?あれって本気だったの?冗談かと思ってた。私、仕事があるから行けないよ』って。『どうせ1、2年でしょ。ゆっくり一人で行ってきたら』だって(笑)。もう10年以上同居してる仲だから、万事こんなもんなんで、しょうがない一人で行くかと。盛大な送別会とかもしてもらってたから、今さら中止ともいえませんしね」

 大して事の重大さも考えぬまま、イタリア南端、シチリア島へと旅だった。心身を癒す滞在のはずだった。
 
 
 
 
 

 紺碧の空の下、エメラルドの海を眺めながら、日がな一日、ビールをあおって昼寝する。今までの忙しかった年月を取り戻すはずの贅沢で怠惰な日々…。しかし、そんなものにはすぐ飽きたという。そして、たった1週間で猛烈なホームシックにかかる。

 「たぶん二人で行ってたら、そんな毎日だったかもしれません。でも、たった一人でそんなことしたって、おもしろくもなんともない。おまけにイタリア語なんてまったく話せないし、英語も苦手。それでも観光旅行だったらなんとかなったでしょう。でも、暮らすとなるとそうはいかない。ただ漠然とシチリアを選んだだけで、その土地の慣習も知らなかった僕は、とまどうばかりでした。市場では毎回ぼられるし、買い物に行っても注文をとってくれない。いつまでたっても後回し。スーパーのレジではオバチャンが口頭で言う値段がわからず大きなお札を出して迷惑だと怒られる。完全なる人間不信ですよね」

 ついに街行く人がみんな悪人に見えて、大量な食料を買い込んで部屋から一歩も出なくなってしまったという。

 「30歳を前にして生まれて初めてのひきこもりですよ(笑)」

 シチリアの美しく輝く太陽さえもうっとうしく感じ、昼間は分厚いカーテンをしめ、一日中パソコンに向かってインターネット。日本の友人からのメールだけが楽しみという悲惨な毎日を送った。

  「あのままだったら頭が壊れてたでしょうね。相当病んでました」
 
 
 
 
 

 そんな八木さんを救ってくれたのが野球だった。きっかけはアテネオリンピックだ。テレビのオリンピック特集を見ていて、せっかくだから行ってみるかと重い腰をあげた。シチリアから逃げたかったという思いもあった。アテネでは、野球観戦三昧。もともと子供の頃から野球少年で、中学までは地元の強豪校の野球部で活躍していた八木さん。松坂を初めとする日本の有名プロが出る試合は見逃せない。日本への郷愁もあったのだろう。

 「でも、驚きました。球場も観客も草野球なんですよ。多摩川の河川敷のような設備の球場に、観客はといえば、日本人以外、野球のルールも知らない地元の人がパラパラ。おそらく日本で報道されていたであろう緊迫感はまるでなかった。そして、逆にそれがよかったんです。練習の時なんて、松坂が普通に外野で球拾いしてて、返球するたびに野茂のモノマネしてみんなを笑わせてたりね。みんな昔の野球少年に戻ったように、気負わずに思いっきり野球を楽しんでいるんですよ」

 これを見た八木さんは、無性に野球がしたくなった。考えてみたら、物心ついたときから29歳まで野球から離れたことがなかった。高校からは野球部にこそ所属しなかったが、中学時代の仲間と草野球チームをつくり、イタリアに旅立つまでそれは続いていた。八木さんにとって野球は日常だったのだ。「よし、野球をやろう。イタリアでも草野球を始めよう」くすぶっているぐらいなら、何もかも忘れて野球をやろうと思い立った。

 これがドラマの幕開けだった。さっそくシチリアに戻りインターネットを駆使して調べると、運良く家の近くにチームの事務所らしきものが見つかった。

 「もうどんなチームかなんてどうでも良かったですね。とにかくチームに入れてほしくて、飛び込み訪問ですよ。外国人ですから、地元の草野球チームに入れてもらえるかどうか心配でしたけど、とにかく熱意で粘ろうと思ってました」
 
 
 
 
 

『野球がしたいんです』と、あと数語の片言イタリア語だけで、とにかく思いを伝えた八木さん。最初は大笑いだった相手も、熱意に押されたのか、とにかくまた会ってくれる約束はとりつけた。そして、それはどうもテストのようだった。「なるほど、どれぐらいのレベルかみてやろうってことだな」そう思った八木さんは、やる気満々で挑み、見事、合格。

 「でも、実は、みんなの練習を見て、最初はショックだったんですよ。まさかイタリアの草野球チームがこんなにウマイなんて! ってね。野球大国ニッポンで20年以上草野球をやってきた自分が、イタリア野球程度なら楽勝だ…ぐらい思ってたら、みんなすごいレベル。これじゃあ、テストもされるわけだって。だから、真剣でしたよね。草野球やるのにこんなに真剣に挑まなきゃならないなんてスゴイなぁって、そんなことを思ってたんです。まさか、それがプロチームだなんてね(笑)」

 そう、八木さんは、シーズンを終えるまで、プロチームに入ったとは微塵も思わず、楽しくゲームをしていたのである。

 「チームメイトにウチはセリエAなんだよって自慢されても、サッカーをマネしてセリエAなんて言っちゃって…と笑い流してましたしね。イタリア野球のリーグ分けにもセリエA、B、Cがあるなんて知りませんでしたから。結局、はっきりとわかったのは、7試合ほど出場して、そのシーズンが終了した後。事務所で給料らしきものをもらった時でした。『え?オレってプロ野球選手だったの?』って感じですよね(笑)」

 後で判明した話なのだが、プロ野球選手といっても、イタリアでは野球だけで食べている選手は少なく、外国人枠ということで出場給というのをもらえたらしい。実際、選手の中には、医者や弁護士、ホテルの支配人といった立派な職業についている人がたくさんいたという。そのため遠征には参加できないという信じられない話もあった。



 
 
 
 
 
いずれにしても八木さんはれっきとしたプロ野球選手となった。しかし、プロ野球とか草野球とか、そんなくくりはどっちでもよかった。とにかく野球ができたことが幸せだった。

 「なにより良かったのは友だちがたくさんできたこと。ホントにチームメイトには恵まれました。みんな僕に気を使ってくれて、誰かしら話しかけてくれましたし、試合後はみんなで飲みに言ったり、休みの日には誰かの家に集まってパーティをしたりね」

 それで語学が向上しないわけがない。一日中、一言も話さず引きこもっていたのがまるでウソのように、八木さんはシーズン中のたった2ヵ月ほどで、ほぼ会話に困らない程度のイタリア語を身につけてしまった。「みんなともっと話したい!」の一念で。言葉がわかるようになると、ひきこもっていた当時、地元の人にイジワルされていると思ったのも、ちょっとした勘違いだったとわかった。

 「ぼったくりのオジサンは、僕だけじゃなく地元のオバサン連中にも果敢にぼったくりをかまし、いつも客とケンカしてる人でした(笑)。買い物ではどこへ行っても、注文の順番を飛ばされると思ってたけど、むこうでは、訪れた順番に店が注文を聞いてくれるのではなく、ほしいと思ったら大声で主張しないと、まだ迷ってる客とみなされて、後回しにされるだけ。単純に慣習の違いでした。大きな声で頼むだけで解決できたのに、それすら僕はできなかったんですね」

 八木さんは、その後2シーズン、イタリアでプレーし、その後、キューバをまわり、リトアニアでも野球選手として活躍。今後はエジプトでもやってみたいという夢を持っている。そんな世界を転々とする八木さんにとって、海外で楽しく生活をする方法はなんなのだろう。

 「少なくとも語学ありきではありませんね。躊躇せずに好きなこと興味の あることで仲間づくりをすることが一番です。僕の場合、とっかかりは好 きな野球でしたけど、実は、それでやる気がわいて、本職のカメラマン としても活動しはじめたんです。きっかけは街の写真館でした。数ある 写真館の中から、ギャラリーに飾ってある写真が気に入ってた店に、 チームメイトなどをとった写真を現像してもらっていたんです。そうしたら、ある日、店主が『おまえカメラマンだろう。撮り方が全然違う。 オレの仕事を手伝わないか』と。その人、シチリアで最も有名なカメラ マンだったんです。イタリアに来て驚いたのは、カメラ技術にしても野 球技術にしても、日本人の能力は驚くほど高いんだということ。他の国 に比べて、教育や仕事の競争が激しいのが要因かもしれませんね。だから、日本人はもっと自信を持っていいと思います。特に好きなことなら 自信も湧くし、自信を持って接すれば地元の友だちもどんどんできてい きます。地元に入り込むことがやはり大切ですから。そして、地元に入り込むためにはやっぱり笑顔。よく、日本人やアジア人は無意味に笑っていると揶揄する人もいますけど、それでも僕は笑顔が武器になると思います。欧米人がそういった悪口をいうのは、僕たちアジア人が怖いからなんです。だからやっぱり入り込むなら、何を言われても笑顔です。そして、そんな笑顔を素直に発揮することができる場所を、まずは見つけること。僕にとっての野球のようなね。ヘタでもいいからバスケでもなんでも、自分の好きなことを海外でもやってみる。そうすると同じ趣味の友だちができる。友だちと笑顔で接しているウチに、もっと話したくって言葉も覚える。言葉を覚えればその土地の慣習もわかるから、自分の誤解も解ける。そしたらまた次の楽しみが見いだせる。そんな一歩一歩の積み重ねが大切なのではないでしょうか」
 
 
八木虎造さんの著書
『イタリアでうっかりプロ野球選手になっちゃいました』
小学館/1260円(税込

野球を通してシチリアの
土地柄と人情が見えてくる

 ひきこもりから、一転して本人の自覚なしにプロ野球選手になってしまった八木さんの、実体験がコミカルかつ真剣に書き綴られている。今回のインタビューでは割愛したが、野球選手としてだけではなく、ひょんなことからプロカメラマンとして活躍する下りも、イタリア事情がよくわかって興味深い。読後、シチリアに旅立ちたくなる。

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