ビジネスの世界で勝負してみたい!
との思いからフジテレビのアナウンサーとして活躍している絶頂期に退社・留学という大きな決断をし、単身ニューヨークでの生活を開始。
コロンビア大学にてMBAを取得し帰国した後、念願の企業。
現在2つの会社の代表として大きく事業を展開している坂野尚子さん。
そんな坂野さんの留学時代の悲喜こもごもの経験、思いをお伺いした。
 
 
プロフィール

株式会社キャリア戦略研究所所長。株式会社ノンストレス代表取締役社長。国際基督教大学卒業後、フジテレビにアナウンサーとして入社。1985年、ニューヨーク特派員として赴任。2年間の特派員生活を終えフジテレビを退社。1988年1月にコロンビア大学に入学し、MBAの資格を取得。卒業後帰国し、外資系コンサルティング会社に勤務。シニアコンサルタント、ディレクターとして活躍。その後、1994年1月に起業。株式会社キャリア戦略研究所を設立。キャリアカウンセラーとして活躍する一方、人材紹介でも事業を展開。1996年には、ネイルクイック、ネイルパフェ、クイックシェイプなどの店舗を運営する会社としてザ・クイック(現ノンストレス)を設立。大きな躍進を遂げている。






 
 
 

 坂野さんがニューヨークと繋がりを持ったのは、まだフジテレビのアナウンサー時代。特派員として派遣されてからだった。

「厳密にいえば、その前、プライベートの旅行をした時に、漠然と、ニューヨークっていいなって思ってたんですけど、やはり大きな転機は特派員時代でしょうね。83年に初めてニューヨークへ旅行に行って、パワーと華やかさに圧倒されたんです。その時に、絶対に一度はニューヨークに住みたい!そう思って帰国しまして、すぐにニューヨーク特派員を希望したんです」

 当時の坂野さんは、自分の生き方に大きな疑問を抱いている時でもあったらしい。大学時代も「自分は本当に何をやりたいのか?」と常に自問自答し、結果として、より多くの人と接したい、いろんな人の話を聞いて、それを世間に伝えたいとの思いから、アナウンサーの仕事を選んだ。今では考えられないぐらいの女子大生就職難の中、大手のフジテレビ、しかも難関のアナウンサーになるためには、相当な努力が必要だったことは想像に難くない。
 しかし、そんな思いをして入ったテレビ業界、そしてアナウンサーという仕事であったにも関わらず、今ひとつ、しっくりこないと感じている自分がいた。

「アナウンサーという仕事も、とっても楽しいしやりがいのある仕事だったんです。でも、どこか私には違うと。そう感じてました。アナウンサーというのは、基本的にはディレクターの指示に従って動く仕事です。もちろん、マイクの前での多少のアレンジや自分なりの意見のぶつけ合いというのはあるんですけど、それでも、自分の仕切でやる仕事ではありません。そんな思いを持っていた時にニューヨークと出会った。まさに人種のるつぼの街で、そこには老若男女の縛りがない。自分がしっかりしてさえいれば、何でもできそうな、そんな力を感じたんです」






 
 
 
 
 
しかし、だからといって、さすがに一度の旅行で、会社を辞めて留学するということにはならなかった。漠然とニューヨークに行きたいと思ってはいても、その後の方向性はまだ何もなかったからだ。そこでとにかくニューヨークに行きたい一念で特派員を希望。念願叶って2年間のニューヨーク生活が始まった。外に出て取材する日々が続いたため、結果としてアメリカの半分以上の州を制覇するほど意欲的に動き回った。語学力も徐々に向上し、いろんな国の友人もできた。そして、それが坂野さんに大きな転機をもたらしたのだ。

「ちょうど27歳から29歳の2年間でしたから、30歳を前にして、私のこれからの人生はどうすべきなのか?真剣に考えたんです。ニューヨークに身を置いたことで、自分を客観的に見つめることができたんだと思います。もし日本にずっといたら、フジテレビという大手企業の中にいて、物理的には不自由なく生活しているわけですから、思い切った転換はできなかったかもしれません」

 特派員の2年間で、坂野さんはいろいろな選択肢を持って考えたという。「フジテレビで今の仕事をやっていく」「フジテレビにいるが別の仕事をする」「辞めてフリーアナウンサーになる」「大学院でジャーナリズムを学ぶ」しかし、これらのどれもが少しずつ違った。というよりも、ニューヨークでの生活の中で、もっとおもしろそうなもの、自分に合いそうなものと出会ってしまったのだ。それが「ビジネス」の世界だ。当時の日本ではほとんど考えられなかった女性の起業家が、アメリカではどんどん育ってきている時代だった。私にもできる。これが私の目指す道だ。ついに見つけたという感じだったのだろう。

「30代、40代のキャリアを考えた時に、一線でチャレンジしていけるような社長業をやりたい。そう思ったんです。それからは早かったですね。すぐに辞表を出して、大学へ行く準備をしました。みんな驚きますよね。当時はMBAといっても、まだ知らない人の方が多い時代でしたんで、何するの?って聞かれたら、大学院みたいなものに入るって言ってたんですけど、そうすると、学者になるの?って驚かれる。不思議な目で見られました。あ、でも、いま、キャリアコンサルタントとして皆さんに言ってるのは、会社を辞めるのは絶対大学に合格してからにしなさい! これは鉄則です。私のマネはしないでと(笑)。やはり今思うとかなりリスキーなことですから」

 でも、坂野さんに不安はなかった。前述したように、日本にいたらそんな大きな決断をすぐには下せなかったという。決断してからは早かった。何しろ辞めた年の翌1月入学に間に合わせようという準備をしたのだから。

「とにかく早く行きたかったんですね(笑)。まあでも、もし1月生がムリなら9月を目指せばいいし、とにかくやるだけやってみようと」

 その熱意が通じ見事、翌1月、真冬のニューヨークに降り立つことになる。





 
 
 

「特派員時代とは正反対の生活が始まりました。マンハッタンの一等地から、北のはずれの貧乏アパートへ…ですからね。でも、楽しかったですよ。やっとニューヨークの一員、人種のるつぼの一人になれた感じがありましたね。ただ、大変だったのはやはり勉強。語学力がまったく役に立たないんです」

 そうはいっても、坂野さんは特派員として2年間のニューヨーク経験がある。それでもダメとはどういうことだろう。

「実は、特派員の頃のオフィスというのは、現地採用などの英語が話せる人と、私も含めた英語を話せない日本からの駐在員の2種類いて、必ずしも英語ができないと不自由かというと、そうでもなかっ たんです。たしかにニューヨークに来ている日本人の中には、日本語だけで過ごしている人もいるかもしれません。仕事は通訳をつければいいし、私生活は日本人コミュニティで楽しめる。それほど不自由しないのでしょう。私の場合は、それでも頑張って英語で過ごしていたつもりなんですけど、それでも、授業はまったくわからない。焦りましたね」

 教授の話すことはかろうじてわかったものの、ディベートに参加どころか、各々が話していることすらまったくわからない。これでは授業に置いていかれる。成績が悪ければ退校処分もありうる。坂野さんは、毎晩3時過ぎまで、教科書と格闘したという。

「これがまた分厚い教科書なんですよ。しかも、翌日の授業の全教科を読むとなると、ゆうに100ページを超える分量。難しくてなかなか意味がわからないから、途中で何度も眠気に襲われる。でも、寝てしまったら明日は授業にならない。そんな葛藤の中での勉強でしたね」

 語学に関しては、この地道な努力が功を奏した。ある程度、喋れるのだからと、タカをくくっていたところに、それをへし折られるショックがあったから、きちんと覚えようと必死になった。これが結果的には語学力向上には一番効いたという。

「帰国子女ではない私にとっては、語学は本当に大変でした。ある授業でレポートを提出することがあって、何とかがんばって、形にして持っていったら、教授が、これではダメだと言うんです。理由は、資料の丸写しだから。名誉のために言っておきますけど(笑)、その資料を読み込むのだって大変なんですよ。そして、その中から、テーマに合った部分を見つけだしたわけですから、これだって立派な勉強だと思ったんです。英語の不自由な日本人なんですから。でも教授は、日本人でもきちんとできている人はいるって言う。だってその人たちは帰国子女じゃないですか。そう反論したかったけど、できない自分が悪いのだから、ぐっとこらえました。悔しかったですけどね。でも、そういう厳しさがあったから、逆に甘えないですんでよかったのかもしれません」
 
 
 
 
 

 コロンビア大学で学んだことは、今の坂野さんにとって、大きな糧となっている。特に、起業したいという大きな目標があった坂野さんにとって、大学でならった経営学、経済学は、銀行との折衝や、ビジネスプランをきちんと書面にするといった実務レベルでも、非常に役に立ったという。

「私は、アナウンサーという、やや特殊な社会人経験でしたけれど、企業のビジネスマンを経験して大学に入って来る人もとても多いんですね。そして、そういう人たちは、自分の経験がかなり授業に活かされる。授業で学ぶことに対して、自分の経験を話すことができるからです。大学では、よく、コントリビューションという言葉が使われてました。『クラスへの貢献』ということです。何でもいいからクラスに貢献できることをしなさいと。そういう意味でも、社会人経験者が自分のケーススタディを話すことは、貢献にも繋がるわけです。ですから、社会人になってからビジネススクールに行くというのは、全然遅くないし、むしろ理にかなっているともいえます。どんどん、みんな行ってほしいですね。必ず得るものがありますから」





 
 
 

 坂野さんは、2年間の大学生活を終え帰国。その後、外資系コンサルティング会社に就職し、94年に満を持してキャリア戦略研究所を設立。人生のキャリアをサポートするという新しい発想の会社を起業する。そして、第二弾として、96年には、ネイルアートのショップ「ネイルクイック」等の店舗を運営するザ・クイック(現ノンストレス)を起業し、幅広い展開を見せている。

「ネイルに関してもニューヨークのおかげといえばおかげです。卒業後、ニューヨークに出かけた時に、向こうのネイルがすごく安いことに驚いたんです。日本ではまだ出てきたばかりということもあって、一握りのセレブや芸能人ぐらいしか興味を示していなかった。というか、興味はあったんでしょうけど、あまりに高価だったため、一般にまで浸透していなかったんですね。でも、ニューヨークで、普通のOLが普通にネイルサロンに通ってるのを見て、これはイケると。さっそく低価格のサロンを開いたんです」

 今でもニューヨークとのつながりを持つことが、人生のモチベーションにもなっているという坂野さん。留学に際しては、どんな心構えで学び、生活していたのだろう。

「留学を目標にはしないようにしよう!まずはそう思ってました。私は留学に憧れて海外へ出たわけではなくて、目的があって、その手段として留学しているんだと。だから、ただ語学を学んで帰るだけじゃなくて、語学プラス何か、できれば何かと何か、自分の人生に必要なことを必ず掴んで帰るぞといった気持ちで望んでましたね。でないと、やはり大変な生活の中で折れてしまいますから。留学は決して楽しいことばかりじゃないから、ちょっとでも心が折れると流されてしまう。結果として、卒業もできなくて、語学も中途半端になってしまうなんてことにもなりかねません。そのためには、モチベーションを保つための、もう一つの『何か』をしっかり持って、それを目指して頑張ってほしいと思います。その『何か』は、その後の人生の中で、必ず役に立ちますから」